(2002年4月南部アフリカ研究会ネットワークノートより。)

MSc in African Studies, University of Edinburgh 2000-2001

Yipee!!”
─「やったー!」

夕べ、陽気な第一声がメールで届いた。スコットランドはスターリング大学で、たった今phD論文を仕上げて、永い時間から開放されたあのひとからだった。フィオナ・チャラマンダ・・・─実質上私のスーパバイザー、指導教官だった彼女だ。やった!パスした!

 エディンバラ大学アフリカ研究センター(Centre of African StudiesCAS)は、社会科学部に所属する。その学際的な地域研究の柔軟性が売りである。ただ、社会科学的研究に加え作家ベッシー・ヘッドを知る教官の指導が必要だった私は、当時文学専門の教官がCASに所属していなかったため、文学研究が非常に進んでいるスターリング大学まで通い、論文の指導を受けていた。エディンバラから電車で約50分。緑の美しい季節だった。スコットランドの緩やかな風景が、街から街へ続いていた。空が、青かった。

その街エディンバラは、酵母のにおいと永い歴史に満ちていた。

グレーの石畳が、広がる。古い四・五階建ての建物が、連なる。坂を上ると、町のいちばん高いところに要塞のような城がある。城からロイヤルマイルと呼ばれる道をまっすぐ下ると、約一マイル先に壮麗な宮殿があり、岩肌むき出しの山があり、その先に海が広がる。

 私の住処となったミルンズ・コートと呼ばれる歴史ある建物は、もっとも城よりの贅沢な場所にある、非常に価値の高い建築物だった。もちろん、古い街にゴースト話は尽きない。

 スコットランドの血塗られた歴史とともに、その街があり、大学がある。1772年まで独立国家の首都だったエディンバラには、その誇りと愛国心と素朴な美しさとで輝いたひとびとが住んでいる。そのことだけで、私はこの国を愛した。むろん、市内に400はあるといわれるいわゆるパブの存在も、そのひとつだけれど。

大学は、街の中にあった。

テラスハウス状の建物が古い石畳の通りに沿ってたち並び、深い青色の看板が並んだたくさんの扉にひとつひとつ添えられている。歴史ある大学の、数ある学部のオフィスがずらりと続いているのだ。石造りの建物と、時を刻んで丁寧に扱われてきたその壁。建物自体をいつまでも大切に残し、内装だけの改築を繰り返してきた。CASは、そんな空気のある一角にあった。

 CASの修士プログラムの学生は8人。南アからひとり。タンザニアからひとり。日本から私。そして、英国各地からの学生。

 イングランド人のアンディは紅茶にミルクだけ。ウェールズ出身のクレアはストレート。タンザニアのセレマニは、もちろん砂糖2杯にミルクたっぷり。私はといえば、その日の気分で。

週に一度のコア・コースのある日、修士プログラムの学生がCASに集まると、所長ケネス・キング教授のオフィスの向かいにある会議室で、学生は銘々の紅茶カップを手に大きなテーブルの好きな場所に席をとる。学生の人数が少ない上、教授だろうが誰だろうがファーストネームで呼び合う。紅茶の好みだって、おぼえられる。講師も同じテーブルに加わり、自然と講義が始められる。この上なく真剣でハードで、ときに笑いもある。皆、本当にやりたいことをしている。だから、余裕ある笑みで、真剣にアフリカのことを考えられる。

日本人としての私が、他の国の人々といわゆるアフリカ研究をする。そして、アフリカ人アフリカ研究者と一緒に勉強をする。それぞれのバックグラウンドで、語り合うことば。本の中だけにとどまらない、我々の実際生きてきた社会のことを考える貴重な時間だ。世界各国の様々な経歴を持った人たちと、活発な議論を通して違った視点を確認しあうことで、アフリカを自らの中で多面的・立体的に構築していく絶好の機会。そして、世界がつながっているというごく当たり前なことを、認識する。

 比較的規模の小さなCASではあるが、カリキュラムの組み方は非常に充実している。

CAS自体は、オフィスや会議室・応接室など、いくつかの部屋だけのこぢんまりとしたつくりではあるものの、同じ建物に所狭しと並ぶ研究室にはアフリカを専門とした様々な分野の教授陣がそろっている。大学全体では、実に17学部に渡る約100人以上の教授・講師がアフリカ研究を専門、あるいは専門の一部としており、CASにも学際的な研究環境を提供していることになる。

 CASでの修士プログラムは、フルタイム制で全12ヶ月。社会科学ベースのコア・コースを中心に、多岐に渡った約20種類の科目からそれぞれの関心に基づいてカリキュラムを組むことが出来る。アフリカの政治・社会的発展と題されたコア・コースは、歴史・経済・教育・政治・法律・環境保護と開発の順に、多分野にわたったテーマで展開され、さらにディベートとディスカッションが加えられていた。当然、多種多様なバックグラウンドをもった講師が順番に講義をしていくので、講義内容の密度は非常に高い。

週に一度のこの必須コースに併せて、学生は自分の興味と専門にあったコースを多学部にわたり選択することができるため、各々の研究テーマにそったカリキュラム作り、ひいては年度末の修士論文に向けた準備を工夫することも可能なのである。

私の場合、プログラムでは「開発」中心にエッセイを書いてきたが、論文はやはり作家ベッシー・ヘッドを使ってアイデンティティと歴史認識の問題を描いた。よって、社会科学分野だけでなく文学の専門教官も必要だったわけであり、スターリング大学通いが実現したわけである。このことも、その柔軟性を売りとするCASならではであろう。

修士課程の学生の課題は、年間6本のエッセイ。それぞれ3,500ワードから4,000ワード。論文115,000ワードから20,000ワード。プラス、数回のプレゼンテーションやディスカッション、ディベート。平常授業のリーディングが、いつでも山積み。毎週開催されるセミナーには、研究者をはじめ政府関係者からNGO関係者まで、幅広いバックグラウンドの人間がやってきて、非常にアカデミックな専門分野の講演から現場のストリートチルドレンの話題まで、実に多種多様な話題で聴衆をうならせる。また、一時帰国中のNGOスタッフ、研究生など、それぞれのキャリアをもった専門家の都合が合い次第、月に数回のペースで臨時セミナーや昼食をとりながらの気軽な発表などがある。これにより、学生は多くの人と触れ合う回数が増え、自らのネットワークを広げる機会を得られる。

毎年、学会がある。かなり力を入れた学会で、世界各地から毎年100人ほど集まる。多角的な視点と立体的なアフリカ像の構築。めくるめく発表が終わると、皆でハイランドに行く。美しい大自然の中で、三日間過ごす。小さなセミナーと、書評会。そして、テニス、バドミントン、パターゴルフ、散歩、探検、昼寝、日向ぼっこ、語り合い、おいしい食事、ワイン、音楽、歌、ハイランドダンス観賞、あの人のいつもと違う表情、酔っ払って歌って踊って語り合った青白い夜明け。遠くて近い、アフリカの感触。いろんな国の、いろんな年齢の、いろんな人生を背負った人々のなかに、同じ「アフリカ」が息づいている。

スコットランドは、素朴で美しい。ほとんど、森がない。ただただ、広く荒く、ときに緑がまぶしい。

授業やセミナーが終わると、もちろん皆でパブに行く。日の高いうちからビールを呑む。多くのアフリカ関係者と、ギネスを片手に語り合う貴重な時間。それから部屋に帰って、夜明けまで次の日の授業のリーディング。そんな毎日だ。なんて贅沢な、日々なのだろう。怒涛のような知識の嵐。どんどん刺激される面白さ。図書館にぎっしりつまった古い本と新しい本たちの息吹。誰かの瞳に映る、アフリカの風景が見える。

論文を書くということは、孤独な作業だ。

指導教官や周囲の人の温かい眼が見守るなか、毎日夜明けを見つめながらパソコンの画面と対面する。その繰り返し。孤独は理解しあえるものだけれど、共有することはできない。

ミルンズ・コートには、世界各地の学生が住んで、ともに孤独と向き合っていた。夜明けまで静かに音楽をかけながらひとりパソコンと格闘し、昼過ぎに起きだしてきて、だまって朝食を準備する。柔らかい光。その柔らかさの中にいることが、どれだけ大切で孤独でとっぷりと濃い時間なのか。自分の生き方を考えながら自分の人生を生き、だまって目玉焼きをつくる繰り返し。油断している暇はない。自分は自分のためにご飯をつくらなければならない。エディンバラまで、きているのだから。その時間は、あまりにも短いのだから。

いつもの朝、いつもの友だちから電話があって、シャワーを浴びて、いつもの自分の部屋からちゃきっと着がえて、天気の良い外に出る。いつもの石畳の道を大学へ向かうといつもの人にあって、ちょっと時間があるから一緒にアイスコーヒーを飲む。そういう日々。

孤独を分かち合うなかから、未来への方向性が生まれる。世界が広がる。

日本人としてアフリカ研究をするということは、どういうことなのだろう。そして、南ア人やタンザニア人やイギリス人が、アフリカ研究をするというのは?彼らとの強い仲間意識はどこから生まれるのだろう。

作家ベッシー・ヘッドを研究するのではなく、私は彼女の目を通したアフリカをみてみたい。鋭い観察眼を持ったリサーチャーとしてのヘッド、歴史家としてのヘッド、アフリカ人としてのヘッド。彼女の意識のフィルターを通した社会。彼女のみたものを、私は描き出したい。そして、私の生まれた国の人々に、伝えたい。私の世界を構築したい。ヘッドが望んだのは、そういう研究なのではないだろうか。ヘッド研究ではない、彼女のみたアフリカのことを知る。

少なくとも、いわゆるアフリカ研究者はアフリカ人ではない。

日本人でアフリカ研究者をしている私としては、単なる対象としてのアフリカを越えた次元で、対等な視線でアフリカと向き合いたい。スコットランドも南アも日本も、同じ世界の一部をともに構成しているのだから。当たり前のことだ。

エディンバラで、ギネスと一緒に私の内臓に染みわたったこと。

20024

霞む東京湾にスコットランドの海をかさねながら、浦安にて。



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