7月6日、南アフリカ共和国。
ナタール州ピーターマリッツブルグ。
フォート・ナピア精神病院にて、ベッシー・アメリア・エメリーは生を受けた。
母は白人、父親は黒人。
1927年に人種間の性行為と恋愛・結婚を禁止する「背徳法」施行された後だったため違法出生となる。
母親はイギリス系の白人女性で、経済的に裕福な家の娘であった。入院していた精神病院でベッシーを出産。
父親はアフリカ人であるらしいということはわかっているものの、情報は全く残されておらず、1943年に亡くなってしまった母親のみが真相を知る「謎」となっている。


1937, Pietermaritzburg

Bessie Amelia Emery ベッシーの母親は、当時人種差別主義的な法律が整備されていく南アフリカで、「黒人の子どもを身ごもったため、家名を汚さぬよう、一族は彼女を狂人として精神病院に幽閉された」と言われているが、彼女の一族が生まれる前のベッシーを「カラード」だと知っていたとは考えにくい。
つまり、彼女が精神病院に幽閉された理由として、当時結婚に失敗し、幼い息子を事故で亡くしていた彼女に、神経症的な言動が見られたからということが考えられる。実際、彼女の姉は妹を気遣って東海岸のダーバンのビーチリゾートに連れて行ったりなどしながら気分転換を図ろうとしていたという。しかしやがて、彼女はベッシーを身ごもる。それは傷ついた彼女の心を癒す愛の結晶であったと、わたしは思いたい。
精神病院で生まれたばかりのベッシーは、一度はアフリカーナー(オランダ系白人)の家庭に里子に出されるが、「何かおかしい」とつき返される。肌が浅黒かったからだ。そして、ベッシーはカラードの夫婦に里子に出され、養父母を実の父母と思って育つ。6歳の年には、精神病院で実母が亡くなり、幼いベッシーの教養のために財産を残す。何も知らないベッシーは13歳になると、養父母の家庭の経済事情悪化にともないダーバンの英国国教会系孤児院セント・モニカで学校に通うようになる。
はじめてのクリスマス休暇がやってきて、実家に帰ろうとする13歳のベッシーを孤児院の院長が呼びつけ、彼女が一生涯忘れられないような台詞を言うのである。

「あなたは、あの女性のところに帰ることはありませんよ。
あの女性はあなたの母親ではありません。あなたの母親は白人で、頭がおかしかった。
馬屋番の男の子どもを身ごもったから精神病院に入れられたのです。
あなたも狂ってしまわないように気をつけないといけませんよ」

やがてダーバンで教員になるものの二年間で退職、ジャーナリストとしてケープタウンやヨハネスブルグで、タブロイド紙のゴールデン・シティ・ポストなどに勤め、記事を書き始める。1950年代から1960年代にかけて、南アフリカは反アパルトヘイト闘争が激化し、多くの活動家が逮捕され弾圧され、亡命をしていた。嵐のような時代、ベッシーはジャーナリストとして働き、政治活動にもかかわる。

 

Serowe, Botswana ジャーナリストのハロルド・ヘッドと結婚し息子をもうけるものの、結婚は失敗する。1964年、政治活動にかかわっていたため南ア政府からパスポートが降りなかったベッシーは、二度と南アフリカへの帰国を許さない出国許可証を手に、ボツワナ(当時のベチュアナランド英国保護領)に亡命する。その22年後、アパルトヘイトの終焉を見ぬままボツワナのセロウェ村で亡くなるまで、南アフリカには戻ることがなかった。

ボツワナでの彼女の生活は貧困と孤独を極めた。

 ベッシーは描き続けた。ボツワナの農村をモチーフとして、物語を書いた。
それは、人間の心の中に潜む悪、そして拮抗し、意味を変容させていく善悪。
それは、他ならぬアパルトヘイトという悪を経験したベッシーが描く、人間性の追及であった。
そして、ことばはうつくしくて力強い。毎日毎日、手紙も書いた。
書くことによって、彼女は生かされていた。

孤独と貧困の中で、彼女はやがて精神を病む。カラードという人種的カテゴリー、天涯孤独の身で国籍もない。民族的アイデンティティもなければ母国語としての民族語も持たない。そして、ボツワナの国籍も得られぬままに自給自足に近い生活を送った。

タイプライターに向かって、雷のように鳴り響くことばたちをつづった。彼女の小説が本になるのは亡命してから数年後、主に
70年代からであった。どんどん名前は売れ、有名な作家として活躍しつつあったところへ、86年、肝炎になった。
48歳の、早すぎる死であった。
Somehow, by chance, I fled to this little village and stopped a while.
I have lived all my life in shattered little bits.
Somehow, here, the shattered little bits began to come together.
There is a sense of woveness; of wholeness in life here.
There were things I loved that began to grow on me like patches of cloth.


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